いじゅの脳内解剖記録

私の脳内解剖記録。HiHi JetsとSixTONESが主。稀にKATーTUN。

1582 -戦乱の世、愛-

2019年Summer Station、通称サマステにて井上瑞稀がソロ曲として披露して記憶に新しい1582。私にとっては全身の力が抜け声を失う程の衝撃だった。演出による部分も大きいのは無論だが何せよ亀梨和也のソロ曲の中で最も好きな曲を不意打ちでやられたのだ。まさかあんな十年も前のソロ曲を掘り出すなんて誰が予想できたのか?初めてアレを見た時、夢か現か状態で意識が朦朧とするほどに混乱した記憶が微かに残っている。あまりにも大きな衝撃すぎて、重すぎて、受け止め切ることが出来なかった。今でもアレは夢だったのではないか、と現実を疑いたくなる。それ程に1582の衝撃は大きいものだった。

 

 

1582は深い。物凄い深さ。溺れるとかではない、もはやそれ以上の深さ。もしかすると、底が永遠にないのかもしれない、という深み。言葉にすることはなかなか難しい深み。その深さを知らないで、井上瑞稀のソロを見るなんて勿体なさ過ぎる。そこで自称ではあるものの、1582プロを豪語する私が少し手解きをしようと思う。(あくまで個人の見解であることは重々ご承知願いたい)。芸術面からだけではなく、歴史的見地からも紐解いてみようと思う。

 

言語化することが難解な感覚が付随するので、相当稚拙な散文であることを先に陳謝しておく。

 

そもそも、本家1582が初披露されたのは2009年「Break The Records」。まさに、KATーTUNがもはや一種の社会現象となっていた頃。当時亀梨和也は23歳。23歳であのソロステージを完成させる彼はやはり凄い。「和」と言う要素を全面的に出した演出で、妖艶さ、儚さ、また力強さを醸し出した。当時本人は詳しくストーリー性などを語らなかったが、様々な媒体での発言の断片を拾い上げると、モデルとなった人物は戦乱の世で織田信長と共に生きた「濃姫」と考えられる。亀梨くん本人から「女性目線のラブソング」とヒントがあった。

 

名こそ知れ渡る濃姫だが、彼女は歴史上、どのような最期を遂げたのか未だにハッキリとは断定されておらず、五つ程の諸説が有力説として残されている。かの有名な「本能寺の変」で織田信長は自害し濃姫は生き残った説が有力とされるが、1582においては「本能寺の変」で共に二人で亡くなった説を採用してると考えたい。ちなみにCD収録分は終始女目線だが、実際のライブでは前半が女目線、後半は男目線歌詞という演出に変わっている。前半では簪をしており、後半はその簪を抜き取っていたことからそう捉えている人が多数だ。ちなみに作詞者の名前は「n」となっているが、後日談により、亀梨和也本人によるものと明かされている。

 

ではその歌詞はどんなものなのだろうか?歌詞を見ていくことにしよう。

1582

作詞:n 作曲:M.Y

支配される 指先まで
狂おしほど 痺れて
頭の中 壊れてゆく
私は今 何故 どこ?

目の前から 光が消え
永久の眠り SI-でも…

誘い文句 朱(あか)いその唇 痺れる心 踊る乱れてゆく
その血に溺れて染まる

見果てぬ地に向かう瞳(め)は 何を映し出してゆくの?
どうかどうか私を その手でつかんでいて
共に刻む針達に 奥の方を噛みしめて
ずっとずっと醒めぬよに 胸に手をあて願う 愛を

傷だらけの 心さえも
あなたを見て 癒えるわ
欲望とか そうじゃなく
無意識なの SI-でも…

傷を癒すクスリ 気持ちいいの
明日は何処(いずこ)へ行かれる そんなのいやなの
その血に溺れて染まる

あなたとの日々夢見て 散っていった星達も
どうかどうか覚めぬよに 胸に手をあて願う
優しいのやら何なのか 一秒ごとに色を変える
ずっとずっと私を その手でつかんでいて 愛で

見果てぬ地に向かう瞳(め)は 何を映し出してゆくの?
どうかどうか私を その手でつかんでいて
共に刻む針達に 奥の方を噛みしめて
ずっとずっと醒めぬよに 胸に手をあて願う

あなたとの日々夢見て 散っていった星達も
どうかどうか覚めぬよに 胸に手をあて願う
優しいのやら何なのか 一秒ごとに色を変える
ずっとずっと私を その手でつかんでいて 愛で

 

この歌詞を見てみると、一文一文がかなり断片的で、あまり繋がりが無いように感じられる。このことから、何か連続したことが連なっている訳ではなく、燃え盛る本能寺で信長と濃姫が共に果てゆく時に、濃姫が記憶をフラッシュバックさせて、断片的に思い出してる状況なのではないかと考えられる。序盤では「私は何故今どこ」とあることから燃え盛る炎に囲まれ渾沌とする中、走馬燈のように様々な記憶が駆け巡っている様子を表しているのではないか。「目の前から光が消え〜」からも読み取れる。

濃姫は「美濃の蝮」こと齋藤道三の娘であり、信長との結婚は政略結婚とは言え、大切に扱われ愛されていたとする説が現在では流布しているが、その説から考えると「誘い文句〜」の部分は夜の記憶の回想とすることができる。政略結婚だとあまり夜を共に過ごさないこともあるが、少なくともこの1582という世界観においては2人は政略結婚とは言えども親密な関係を築いたと考えられる。

「朱いその唇」は男の目線のように一見感じるが、濃姫の口紅が信長に移ったと考えればそこまで不思議なことではない。また、直後「その血に溺れて染まる」のフレーズにおける、「血」は自害する信長の血であると読み取れるので回想から現実に戻っていることが分かる。時系列は行き来するが、口紅と血で赤いもの同士という共通点を用いて二つを関連付けているところはかなり手が凝ってる。

この次にある「見果てぬ地」を文法的に読み解くと見果つ+打ち消し「ず」の連体形+地となるので、直訳すると「最後まで見届けることが出来ない地」となり、これに解釈を加えると「地」=「信長の天下統一が叶った世界」と捉えられる。すると、「最後まで見届けることが出来なかった天下統一の世界」、という意味になる。信長はきっと最期の瞬間まで天下統一を夢見て、叶わぬその世界を瞳の奥に映し出したのだろう。

「共に刻む針達に」は2人で過ごした時間のことだろう。最期まで共に寄り添った二人の愛が次の世でも続くようにと願う濃姫の想いが表れている。

ここで二番に入る。二番の序盤からは戦国の世の厳しさが表れている。今では想像もつかぬ不安定な世の中だろうが、今も昔も妻が家を出る夫が今日も無事に帰って来ることを願う気持ちは変わらぬ、ということが伺える。古から人間は変わらない。ここまでの部分も回想シーンだ。

「あなたとの日々夢見て 散っていった星たちよ」というフレーズからは、信長の家臣や忠臣も無念に命が散っていくことを示唆しているのではないか。

「優しいのやらなんなのか〜」も現代の女性と同じような目線から歌われている。信長は「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」が有名なように、冷酷な一面があることが知られている。濃姫を大切にしてたとはいえ、彼も人間であるので、天下統一に走る戦乱の世、たまには冷たくなったり、外交策の一環である厳しい考えを示したりすることもあったのだろう。ここからは人間らしさを感じられる。それでも濃姫はそんな信長を想う気持ちが絶えなかったのだろう。

最後の一言が「愛で」という所は特徴的だ。完全なる文ではないので余韻が残るようになっている。

また、全体を通して濃姫から信長に宛てた手紙のような文体になっているので感情移入しやすくなっている。

 

演出的には先述した通り、「和」をベースにしたものだった。衣装はピンクと赤をベースにした女物の着物、長かった髪の毛は束ねて、そこに簪を刺すという装い。全体的に艶やかな色合い。イントロ部分ではお面を巧みに使いこなし、さらに、異例の長さとも言える約十分間のソロコーナーを通して、大量の水や和太鼓、箱(演出的に棺桶のような役割だと考えられている)、東京ドームでの空中フライングなど、膨大な要素を詰め込んだ壮大な作品となっている。時空を超えたテーマを、広大な空間を利用して表現している。

 

ここまでの内容を踏まえてから2019年のサマステで披露された、井上瑞稀の1582をもう一度振り返ると、これまでとはまた違った視点で違った見方が出来るのではないか。

 

私自身が衝撃を受けすぎていて未だに井上瑞稀の1582を冷静に振り返る勇気が出ないのでまたいつか、機会が巡って来た時にあのソロステージについてしたためようと思う。